Storys

ストーリーズ


結婚式に関する全ての不満を解消する形で、商品設計やサービスは始まった!

自分の欲しいものに溢れている場所、社会の課題を解決する店でありたい

創業ストーリーその1

思えば、ウエディング雑誌の編集の仕事をする以前からずっとそうだったけど、いつか結婚式をする立場に立って消費者の目線で思えば、衣装も、料理も、オリジナルウエディングのプロデュースも、ヘアメイクやヘッドアクセサリーや靴、撮影も、プログラムも、結婚式の料金も、その時業界に存在する全ての商品やサービスの、何もかもが納得いかなかった。ウエディング雑誌の仕事をするようになり、それがやがてなんとなくはっきり見えてきてからも、「どうして?」さらにその疑問は深まった。もちろん、そうではないお店もあったのだろうが、素敵なドレスを並べた高級レンタルショップの店員も慇懃無礼だった、ドレスに近づくと、ドレスに触らないでとばかり、ドレスと私の間に入って、サッと白いグローブを手渡す接客員を前に、私がお金持ちでないってどうしてわかるの?と、ドッとと汗が噴き出す感じ。ドレスを選びは、もっと楽しくなくていいの?って思った。

自分の欲しいものに溢れている場所、社会の課題を解決する店でありたい

東京という婚礼マーケットの最前線で、メディアという立場だからこそ取材できるブライダル業界の舞台裏を垣間見て、業界のトレンドをチェックしながら、気づき始めたのは、不思議なことに地元「鳥取」の魅力だったというのも変な話だ。海の見える素敵な白いチャペルの目の前に広がるどんよりと濁った海や、ブランドを象徴する金のシールが貼られ、ピッチリとラップに包まれて、吉祥寺の高級スーパーで販売されている一個300円の完熟トマト。そんなものを見るにつけても、何度も鳥取出身であるという優越感に浸った。鳥取では、海は透明で青くて美しいことが当たり前だったし、完熟トマトは、今朝畑で採れた今にも皮がハジけようとしている艶々の新鮮なものが、カゴいっぱいに入って100円なのに。鳥取では、普通にあふれていたものが、東京では、お金を出したとしても手に入らない、貴重なものだったんだと、改めて気づいた。死ぬまでに一度は行ってみたい秘境と言われる「鳥取」の価値に。また、さらに地方の婚礼の習慣や習わしを取材をすればするほど、地方に残る婚礼文化の魅力にはま理、もっと知りたくなったし、廃れゆくその慣習を伝えたり、残したりしたくなった。そして、ただ、ただ、ウエディング業界における自分自身の不満を解消する、私の感じる課題を、自分で解決したかった。そしてもしかしたら、それは、ここ東京では、ここらからこそ解決できないかもしれない?とも思った。自分が使いたい商品やサービスが作りたいなあ。これが、全ての始まりでした!

結婚式の仕事だけはしたくない!子供の頃から思っていたのこと

子供の頃、家業の婚礼衣装を斜めに見ながら、「なんて古い感じの衣装なんだろう」皇室の衣装にも似た、一般のファッションとは違う何かを感じ、「結婚式に関することは何もかもが時代遅れだ」となんとなく子供心に感じていた。まるで裸の王様の物語のように、みんな本当はそう思っているけれど、誰も口にしないように、当時、ドレスの袖が、とんでもなく膨らんでいたり、えりはスタンドカラーで、できるだけ肌を見せないように作られたデザインを「なんか古い感じ」とは誰も口にしなかったし、「そういうもの」という暗黙の了解みたいなものが何となくひたひたと漂っていた。「婚礼の仕事は何か胡散臭い、何かがおかしい、だから絶対手伝うことはないだろう」、そして「鳥取で働くことも、変えることもないだろう」と、今から思えば、両親には大変失礼な話だが、子供心に勝手に思っていた。

バブルの終わりごろ、「DINKS」と共に、なぜか地味婚が流行り初めていた!

たまたま、博士になるという夢が打ち砕かれ、何でもいいから、東京でクリエイティブな仕事をしたいと思っていたら、縁とは恐ろしいもので、色々あってブライダル雑誌の編集の仕事をすることになった。業界のドレスや和装メーカーや、式場を取材するうちに、お客様のニーズがあまり反映されにくい古い業態や仕組みに気づいた。残念なことに、業界全体を見渡しても、大手のメーカさんには予想通り、自分の着たいと思うドレスがほとんど存在せず、いいなと感じだと思う和装もあまり目に留まらず、ここで式をしたいなあとあこがれる結婚式場も思いつかなかった。逆に、どんなに贅を尽くした立派な調度品があっても、ピンとくるものがなく、本物のヨーロッパには勝てない感じがあって、専門結婚式場は、選択肢の中に入って来なかった。そう思っていたのは多分、私だけではなかったと思う。残業代も出ない会社で、いつも遅くまで馬車馬のように働いていたから、実際には、行ったことはないけれど、バブルの終わり頃、伝説のディスコ「ジュリアナ東京」で丸の内のOLの皆さんが、踊り明かしていた頃、DINKS(ダブルインカム・ノウ・キッズ)という言葉が流行っていた。そして、なぜだか、ちょうど地味婚が流行りはじめていて、当時結婚式をしなかった小泉今日子と永瀬正敏が、結婚の報告に、式を挙げるかわりに、自分たちのプライベート写真を公開した写真展を開いたりしていて、なんかそれってオシャレだなあと思ったりしていた。

貸衣装店の娘なのに、ただなのに、実家から借りるという選択肢は全くなかった

DCブランド全盛の時代に、ファッション雑誌のあるスタイリストさんプロデュースで「海を泳ぐ魚のように自由な女たちへ」というコンセプトで、セットアップ方式のウエディングドレスがデビューした。初めてファッションと感じられるウエディングドレスだった。ビスチェとマイクロミニのスカートとか、シャツブラウスにパンツ、オーパースカートなどを組み合わせて、自由なスタイルが作れるもので、ほんの少しカジュアルな路線だった。ボタンや小物は全て魚。取材の時、「これよ、これ!」と思い、そのスタイリストさんとあまりにも意気投合し、家にまで遊びに行かせてもらったりした。

結局、自分自身の結婚式の時には、この方に、20万という破格値で、ミニのドレスを作っていただくことになった。ミニなら、あとで黒く染めれば、パーティードレスとしてもきっと着ることができると信じていた(実際は予算不足で、しかも素材がポリエステルのため、当時は自力では染めることができなかった)。凝ったデザインのものが溢れていたが、何もついていないシンプルなものが希望だったので、タキシードは、大手のタキシードメーカーの商品企画室の室長さんから、ショーで使ったもので、一番シンプルなものを(多分プレゼント?)選ばせてもらった。ダブルボタンのデザインがクラシカルな印象の、胸に黒の刺繍の入ったタキシードは、やっと探し当てたベストなチョイスだった。(今でも肩幅さえ、80年代風でなければ、デザインはすごく気に入っている)。

おばあちゃんの婚礼衣装に心を奪われ、「アンティーク着物」に目覚める

みんなが、チャペルでキリスト教式をすれば、逆をいきたいタイプだったのか、ウエディングドレスでの式には全く憧れることも無く、式服は、おばあちゃんが婚礼のために三越で誂えてもらったという、アンティークの婚礼衣装を着ることにした。おばあちゃんの婚礼当時には、黒のお引き振袖の二枚襲(にまいがさね)だったものが、結婚式の後、当時の習慣で、既婚者の正装として、袖を短く切って、もうすでに留袖になってはいましたが、それでも着たいなと思った。婚礼衣装の業界にまだ、黒のお引き振袖という商品が、デビューしていなかったので、私にとっては、さらにとても新鮮で斬新でした。

黒の着物には、春から夏の裾模様、白の着物には、秋から冬の景色が描かれており、「二枚重ねて四季を纏う」っというその「粋」なコンセプトに心を打たれました。また、帯が素敵でした。今の時代にはほとんど見られない色目の一つで美しい瑠璃色の糸が織り込まれた見事な帯で、まさに、「帯で着る」というにふさわしい迫力でした。あとでわかることですが、その時代には、赤白黒の三枚襲という衣装もあり、黒の着物には松が、赤い着物には竹が、白い着物には梅が描かれ、上前(うわまえ)に、孔雀が描かれたりするものもあった。その後、さらに私自身でも、アンティーク着物にハマり、知ることになるのだが、婚礼の色としての白黒赤には意味があり、一説によると、白は純潔の象徴であると共に、古い自分が一旦は死んでしまう「決別」の象徴、赤は赤ちゃんの赤、生命の象徴としての血の色であり、嫁ぎ先の娘として生まれ変わる「再生」の証、何色にも染まらない黒は、貞操を誓うという「決意」の意味もあるのだと。

「自分の結婚式は、自分でプロデュースしよう」

昔の日本の結婚式みたいに、秀吉の吉野の花見をイメージして、夜桜のもとで宴を開こうと、庭にたくさんの桜の木のある古い日本のお屋敷を探して(のちに、そこは、プランドゥーシーが和のバンケットとして桜をテーマに売り出すのですが)、桜の満開の時期にすることにしました。可能な限り、ドレスやタキシードメーカの方にまで、出来るだけ着物を着てきてくださいとリクエストをした。自分が貧乏だったので、しかもあまり深く考えず、会費制一万円で、、、。夫の友人が神主だったので、はるばる瀬戸内海の島から巫女を連れて来て、式をしてくれた。夫が借りてきた、庭を囲む挙式用の幕は、青と白の縦縞で、どうも変だと思っていたら、あとで聞くと何と葬式用の幕だった。雑誌の仕事で知りあった友人のメイクさんは、ヘアメイクはもちろんプロだったけど、カツラは初めて。自分で調達したカツラは、頭にフィットせず浮いていた。

自分の結婚式を、自分が参加しながら自分で演出するのは、あまりにも大変!

着付けされながら自分が自分の結婚式を演出、進行するのは実質、無理だったと、当日自ら進行しながら改めて実感したがすでに遅かった。「誰か花嫁さんを黙らせてあげて!」と、着付け師の先生はハタハタする花嫁に何度も「じっとしていて」叫んでいた。さらに、想定外は続く。

「花冷え」という言葉の意味がわかったのも、皮肉なことに、結婚式の夜だったような気がする。夜桜を見ながらという趣向の予定だったが、4月の夜は、歯がガチガチとなるほど寒かった。しかも途中から雨が降り、東京中歩いてやっとバーニーズで探し当てたアイボリーの素敵な靴は、がっつり雨に濡れてシミが出来、まだ厚手のコートが欲しいくらいの冷え込みに、ベアトップのミニのドレスは本当にきつかった。さらに、不幸は続く。

高砂の花は高すぎて前が見えない、おまけに、目の前に一品の料理も出てこないなんて?

自分たちを数え忘れたので、二人の前には料理が一品も出てこなかったのも本当の話。結婚式をほとんどしたことがなさそうな料亭を選んだのは自分たちだが、二人の料理が注文されてないことに誰も気づく人もいなかった。最後まで、どうして自分たちの前には料理が出ないのかなと思っていた。

演出といえば、餅つきのみ。ポテッと餅をついてから、一言お祝いの言葉をコメントしてもらった。会費の計算もが甘かった。当日仕事で10人が欠席となったので、単純に10万円の赤字。頂いた会費ではまかないきれず、夫の貯金がゼロだったために、ご祝儀も使い果たし、貯金も0になった。結婚後は、しばらくカーテンすらついてない家で暮らす羽目になった。

ゲストのみなさんへの料理の中身はといえば、多分、キュウリ巻きとジンギスカン風の焼肉と、デザートにきなこもちだったらしい。父が気を利かして準備してくれたプチギフトは、郷土の工芸品の「流し雛」だった。結婚式で、「流す」って言葉は、普通この業界の人は使わないよね?と思ったが、最後に新郎の父の挨拶ではなく、花嫁の父が挨拶をした上で、「汚れをこの雛に乗せて流してください」と挨拶していたが、どこに流すの?東京で?と思いながら聞いていた。

電源も飛んで、映像が途中で消えた。カメラマンの友達に、ハッセルでのモノクロの撮影を頼んでいたけど、私の後輩の女の子にうつつを抜かし、プリントしてもらったのは、たった3枚だったっけ。プロのプロデュースチームがいないと、いうことは、恥ずかしながら、こんな有様でした。みなさんは、あの時本当に楽しんでいただけたのだとうかと、今更ながら思う。

プロの力なしに、オリジナルウエディングは本当に難しかった。

そんなわけで、この自力プロデュースの経験と失敗が、その後の結婚式の商品開発の出発点となったのは間違いない。これはみんなにも伝えなくっちゃ。大きなお金を使って、使った価値のある結婚式、お金では買うことのできない経験、「こんな素敵な結婚式に招待しくれて心の底からありがとう」とゲストがつぶやくような結婚式をサポートしたくなったわけなのです。スポーツの世界で、ここぞという時に、奇跡のゴールが決まり、ホームランが出るように、結婚式でも、ちゃんと準備さえしていれば、「ゾーン」ともいうべき奇跡が起きるのです。結婚式の衣装や会場の装飾や演出も大切だけれど、二人がゲストのみんなのことを考える気持ちと、ゲストの皆さんが二人のことを思う気持ちが科学反応を起こし、会場内で一つになる瞬間に、幸せを呼ぶ天使が舞い降りるのです。そんな、「奇跡とした呼べないような結婚式」の実現までの道のりは、果てし無く遠かったわけですが、また少しづつお話ししていきたいと思います。興味のある方は、次の<ストーリー その2>をお楽しみに。


COPYRIGHT(C) IDANISYOTEN ALL RIGHTS RESERVED.